数々のヒットソングを持つシンガーソングライター、宇多田ヒカルさん。
1stアルバム、「First Love」は日本国内の歴代アルバムセールス1位なんですって!
今回はそんな宇多田ヒカルさんの家族について紹介します。
宇多田ヒカルの家族構成まとめ
宇多田ヒカルさんの家族構成は以下のようになっています。
- 父親 宇多田照實さん
- 母親 藤圭子さん
- 宇多田ヒカルさん
宇多田ヒカルさんには兄弟はおらず、一人っ子で育ったようです。
宇多田ヒカルの父親は音楽プロデューサー
宇多田ヒカルさんのお父さんは、宇多田照實さん。
有限会社「U3 Music」の代表取締役を務める音楽プロデューサーです。
- 名前 宇多田 照實(うただ てるざね)
- 生年月日 1948年7月21日(2023年現在75歳)
- 出身地 山口県徳地町(現・山口市)
- 職業 音楽プロデューサー
久石譲さんの楽曲に作詞として関わったり、他のアーティストに楽曲提供をされたこともある照實さん。
近年はプロデュース業に専念されているようです。
その背景はなかなか濃く、16歳で渡米した経験のために英語が堪能、ベトナム戦争に参加した経験もあるのだとか。
ドラム、ギターなどが演奏できるマルチミュージシャンともされていますよ。
一方で、照實さんは演歌歌手だった奥様のマネージャーとして業界入りしており、それ以前の素性については不確かなことも多いそう。
第18代内閣総理大臣の寺内正毅さんは照實さんの伯叔祖父なのだそうです。
2002年、「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングで、体に不調があった娘の代わりに照實さんが出演した、なんてこともありましたよ。
一時「絶縁」も、親子仲は良好
音楽一家に生まれた宇多田ヒカルさん。
自身も3歳からピアノを始めたそうですが、父の照實さんは娘の「歌声」に才能を見出し、幼いうちからレコーディングに参加させるようになりました。
1990年には、家族3人で「U3」というユニットを結成。
本格的に音楽活動を始めるようになりましたが、当時の宇多田ヒカルさんの年齢はわずか7歳でしたよ。
後に照實さんは、音楽事務所「U3ミュージック」を立ち上げ、娘をプロデュース。
社会現象と化した宇多田は、以後も父のプロデュースでヒットを連発した。父と娘は、私生活でも多くの話題を提供した。
引用:NEWSポストセブン
父と娘の二人三脚でミュージシャン街道を走っていきました。
しかし2002年、宇多田ヒカルさんが19歳の時に結婚することとなり、父娘の仲は微妙なものに。
仕事へのアドバイスで距離を縮めたという紀里谷さんと、長年の“専属プロデューサー”だった照實さんは微妙な関係だったと囁かれ、『結婚により父娘に不協和音が生じた』
引用:NEWSポストセブン
後の報道では、宇多田ヒカルさんと照實さんが「絶縁状態だった」と報じるメディアもありました。
ただ、少なくとも宇多田ヒカルさんが離婚を経て別の男性と再婚、出産した時には、親子の仲は雪解けていた様子。
「おじいちゃんになった感想を一言!」というリプライを受け「余は満足じゃ!これからが楽しみ。たくさんのお祝いのメッセ、ありがとう。この場を借りて全員に」
引用:スポニチアネックス
SNSでも娘の出産に喜ぶ反応を見せ、2016年に娘がアーティスト活動を再開するときにも照實さんが一番サポートしていたそうです。
ちなみに、宇多田ヒカルさんがお父さんについて感謝しているのは、「どちらかというと教育上の協力」なんですって。
音楽活動だけでなく、そういった面でも照實さんは尽力されていたのかもしれません。
近年は体が不調か
近年の宇多田ヒカルさんの活動には、あまり関わっていないという宇多田照實さん。
2018年頃から照實さんの意向で、ツアーやコンサートについて娘を中心としたチームでできるようにと、準備をしてきていたそうです。
方針転換の理由は、照實さんの健康状態。
もともと持病を抱えており、それらが進んできてしまっているのかもしれません。
父の不調を誰よりも心配しているのは宇多田ヒカルさん。
父親とはよく会うんだけど、なかなか照れくさくて言えないから。ちょっと贅沢だけど、この場を借りて、20年間ありがとうと言わせてください
引用:NEWSポストセブン
デビュー20周年のライブの際には、普段なかなか伝えられない感謝を照實さんに向けて話していました。
長らく都内の超高級マンションに住んでいたという照實さんですが、現在は住まいを移されており「病床に伏している」という噂もあるのだとか。
娘の近況や孫の誕生などをつぶやいていたSNSも現在は非公開。
心配な部分もありますが、どうかこれからも長く、宇多田ヒカルさんのことを支えてあげてほしいですね。
宇多田ヒカルの母親は元有名歌手で既に死別
宇多田ヒカルさんのお母さんは、藤圭子さん。
演歌歌手として活躍されていました。
- 出生名 阿部 純子(あべ じゅんこ)
- 生年月日 1951年7月5日
- 出身地 北海道旭川市
- 職業 歌手
浪曲師の両親との間に、3人兄妹の末っ子として生まれた藤圭子さん。
勉強好きで成績優秀だったものの、家計を支えるために高校進学を断念し、歌の才能を見出されたことから上京。
紆余曲折を経て1969年9月25日に「新宿の女」でデビューしました。
演歌を歌いながら、アイドル歌手としても人気を集め、ヒット曲を連発しましたよ。
一方で、1974年には喉のポリープの手術を受け、更に1983年頃には網膜色素変性症で視力が徐々に低下するなどの苦難にも見舞われました。
2013年8月22日、都内で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認、享年62歳でこの世を去られています。
2013年に自殺した母親の藤圭子さん(享年62)について、「不安定で危うい人だった」
引用:NEWSポストセブン
娘の宇多田ヒカルさんの目からしても、「不安定で危うい人だった」という藤圭子さん。
彼女の死は、当然宇多田ヒカルさんにも大きな影響を与えました。
波乱万丈な人生
人気絶頂だった1971年に、同じく絶大な人気を誇っていた前川清さんと結婚した藤圭子さん。
しかし、大スター同士の結婚生活ですれ違いも多かったのか、1972年に離婚されています。
その後、自身のマネージャーをしていたという宇多田照實さんと結婚されたのですが……。
このふたり、6回も結婚と離婚を繰り返しているんです。わけわかんない
照實さんと藤さんは離婚と再婚を繰り返し、最終的に「3回離婚・4回結婚」を数えた
引用:NEWSポストセブン
藤圭子さんと照實さんはなんと3度も離婚を繰り返し、その都度結婚したのだとか。
同じ相手で何度も結婚、離婚を繰り返すというのは、たしかにわけがわからないかもしれませんね。
中には離婚の2週間後に結婚したということもあったそう。
そんなこと可能なんですね……。
さて、1983年に娘を出産した藤圭子さんは、「我が子から光が失われないように」と娘に「光」の名をつけました。
網膜色素変性症の身だった自身と重ねたのですね。
娘に音楽の才能を見出すと、1990年、娘を世界で通用する歌手に育てるために藤圭子さんは夫と娘とともに渡米。
お金が足りなくなると日本に戻って歌い、貯まるとまた渡米するということを繰り返しました。
家族3人での音楽活動なども行いましたが、1998年に宇多田ヒカルさんが歌手デビューすると、それを機に自身は歌手活動を封印。
表舞台でステージに立つことはなくなったのでした。
まとめ
今回は宇多田ヒカルさんの家族について紹介しました。
流石宇多田さんの両親とだけあって、才能豊かだった二人。
ただ、才能に溢れた家族だったゆえの苦労も多かったのでしょうね。